子どもの頃に聞いた神さまの話
私自身特定の宗教を信仰していないので、基本的には無神論者なのかもしれない。
ただ、時々山なんかに登ると、「特定の神様」ではないけれど、「神のような存在」の気配みたいなものを感じることがある。
それはキリストなどという特定の名前で呼ばれるものではなく、日本的に言う所の「八百万の神」の一人がどこか近くにいて、こっちの事を時々のぞきにくる、みたいな感覚である。
そのせいなのか「神は一人=一神教」的な物には、何となく独善的な匂いがするので、好きになれないんだと思う。
じゃあ、私が真っ向から、例えば「キリスト教的なモノ」を決して否定する訳ではなく、むしろ「それがあるおかげで、今の自分がいるんだ!」と思うくらいである。
大学で「西洋美術史」の授業があった。
「西洋美術史」といえば、最近の100年ぐらいは別として、それ以外の部分のほとんどが「ギリシャ(又はローマ)神話」や「キリスト教美術」と切っても切り離せない関係である訳で、授業の中でも、特に後者に関わる「受胎告知」「三賢者」「ピエタ」「十字架」「ゴルゴダ」「〜の復活」なんて言葉良く出てきます。
まあ、ルネサンスの前後の歴史に名を残す画家で「受胎告知」を描いた事のない画家なんていないんじゃないのか?と言うくらい、メジャーでポピュラーな画題ですから、それも当然。
それ以外にもそんなキリスト教の話にまつわる絵画をこれでもかと見せられ、それが比較的すんなりと飲み込める自分。
で、ふと周りもそうかと思って同じ授業を受けている同輩の顔を眺めていると「それ何の事?」と言った顔をしている人が多い。
ふと、その時、気が付きます。
自分の幼稚園が「キリスト教系」のそれだったんです。
今にして思えば、月に一度くらい、同じ園内になる簡素な教会で、「神父先生」の話を聞いたり、絵本の読み聞かせの時間なんかにも、時々「聖書物語」みたいなものを聞かされたり。
そうそう、お遊戯会の劇「キリスト生誕物語」では、私は羊飼いの役もしたっけ。
その時の記憶がこの授業の時に見事に甦り、「ああ、それ知ってる」とか「その話には、そんな続きがあったのか」などなど、そういう物語の1シーンとして理解できた訳です。
今にして思えば、そういった部分をすんなりと自分の中で受け入れられたから、その時代の作品に魅力にのめり込む事ができたし、そんな実物を見てみようと、わざわざ海外に住んでみたりした訳です。
だから今でも「キリスト教を信じるか??」と訊かれると「ハイ」と素直に答える事はできませんが、そんな神様がいなかったら、今現在絵を描いている自分もいなかったかもしれない訳で、そう考えるとこれも一つの「神のお導き」だったのかもしれません。
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