日本での巡回展も最終地である岩手県立美術館での展示が始まり、いよいよ盛り上がっているかと思い気や、所詮は「知る人ぞ知る」というか、ほぼ一部の人たちだけが大騒ぎしているようで、ちょっと恥ずかしいやら、残念やら。
私なんかで言えば「この展覧会を見るまでは死ねない!」ぐらいに待ちに待った企画で、岩手まで、あと何回行こうかと考えてる始末。
ちなみにこの展覧会を見てしまった今では、逆に「このままでは死ぬ訳には行かない!」と気持ちを新たにして、制作に臨んでいる訳であります。
私の記憶が確かなら、私が大学生かそのちょっと前ぐらいで、当時、どちらかと言えば「スペインと言えば抽象」といことでピカソやミロ、タピエスなんかがスペインの代表格だった時期に、「スペインの魔的リアリズム」ということで、写真みたいな具象画を描く一派が話題になり、その先駆的な作家として彼が紹介されたのが最初なんじゃないかと思います。
ただこの一派は確かに技法的には写実なんですが、中にはちょっとシュール的な匂いのする作品を作る作家も多く、故に「魔的リアリズム」と言われていたようなフシがあり、アントニオ・ロペスにしても当時、上の作品のように人物が浮いているような物があったり、路上でエッチしてる風景とか、その他にも「魔的」と言えなくもない作品が数点存在していました。
ただ、その後に続く作風からも推察するに、彼がめざしていたのは「魔的」なものではなく「リアリズム」そのものであり、その点では同時代の作家とは一線を画する存在だったと思っています。
(彼以外の作家は「魔的(シュール的)」空間にリアリティを持たせるために写実という技法を取り入れたと思われるが、彼の場合はリアリズムを追求した結果、作品に「不可思議な要素」が表出してきたのではないか?)
当時こんな作品が数点、日本でも展示され、強く影響された人がたくさんいたようで(私も夜行バスを使ってはるばる東京まで観に行った)、今現在写実的な作品を手掛けている作家さんの多くが、少なからず彼の作品を手本にしたり、真似したり(私も)しているようです。
実際、彼の作品の多くは一歩離れてみると、本当に「写真の如く」見えるモノが多く、その技術とまなざしの鋭さ、そして長年同じモチーフに向い続けるそ執着心や集中力には驚かされます。
最近日本でもブームになっている「写実絵画」ですが、それに携わっている方の多くがかのアントニオ・ロペスを信望し、中には神のように言う人もいるようですが、よくよく見ると、彼が目指した物は今の日本で流行っている「写真的なリアリズム」とは、またちょっと違うような気がします。
確かに、上の様な街並を描いた風景画の目の前に立ってみると、本当にその場にいるような感覚になり、臨場感みたいなモノが伝わってきます。
ところがその細部に目を凝らすと、案外細かく描いていない、と言いうか全然描いてなくて、素人眼にも描きかけにしか見えないような部分があちこちに点在しています。
昔、彼の静物画を模写しようと雑誌の写真から拡大コピーを取った事があるのですが、それを見てみるとけっこう大雑把な筆跡だけで表現している部分が非常に多い事に気付き、むしろ「その筆の粗さで、どうしてこんなにも細部まで描いているような印象を与える事ができるのだろうか?」と、頭を悩ました事があります。
ようするに彼の絵は「(ある意味病的に)写真の様に細かい絵」では決して無く、むしろ「当たり前な絵画的な描法で描かれている普通の絵」であると事実に気が付いた時、空いた口が塞がらなくなりました。
そもそも彼には、「正確に描いてやろう」とか「写真の様に描いてみよう」と言う意志は全くなくて、ただ「お気に入りの風景や静物を、目で見た通り描いたら、たまたまこうなった!」みたい感じさえします。そしてその結果として彼の作品中には、対象物そのものではなく、そこから目の中に入って来る光が描かれているのではないかと思うのです。
さらにはそう言った「モノ(対象物、あるいは光)の捉える姿勢」こそが、ベラスケスにも通じる部分なのかもしれません。
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最後に、会場入口のすぐの所にあった彼の言葉が印象的だったので、ここに書き留めておきます。
「最初に受ける感動を表現する能力は、現実世界を正確にコピーする技量や正確さとは別の物なんです。」アントニオ・ロペス・ガルシア
(なんかメモしくじったような気がする...また今度確認して来よう)
中野修一公式ウェブサイト/この世界のカケラを眺めながら
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