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2010年10月17日 (日)

今の「アート」から、最も遠い場所から

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何かの「行為(あるいはアクション)」の結果として残る「作品」。

今の時代、どちらかと言えば残った「作品」よりも、為された「行為」とか、そこに至る「思考(または思想)」の方に重きが置かれている様な気がする。

・どうやってその作品が生み出されて行くのか?
・その作品が生み出された背景は何なのか?

私に言わせれば、どんな作品だろうと、そう言った背景や思想、行為のない作品などこの世には存在しないはずだ。
それがどんな物であるにせよ、全てに置いて「何か」あるはずなのだ。
(もちろん時代の中では、そう言った物を排除しようと試みられた作品もあるが)

そして今、アートに求められるのは、そういった行為や思想の「過激さ」「新鮮さ」「辛辣さ」「判りやすさ」「面白さ」などのような気がする。

遠い過去から流れてきた「美術の文脈」において、どんなに素晴らしい作品であっても、その行為や過程に置いて、前述した様な要素がなければ「面白くない、退屈だ!」「古くさい、カビ臭い!」と言う言葉によって一蹴される。

(もちろん評論家の多くは、そうは思っていても、大きな声で、おおっぴらには言わないようだが。)

私自身「油絵を描く」という行為自体には何の真新しさも感じないし、それを誰かに見せて面白がってくれる行為だとは思わない。

最初のモチーフ選びだって、もちろん積極的に捜しに行くこともない訳じゃないが、大抵の場合、その辺で見かけた風景や、旅行でたまたま出会った風景でしかなく、それ自体も何の珍しい物でも面白い物でもない。

ただここで1ついえる事は、それはやっぱり私が「気になるモノ」であり「心を動かす何か」であり、それを見てしまった(あるいは気付いてしまった)ことで「描かなければ、いても立ってもいられない存在」なのである。

そしてそれを表現するために、最も適していたのが、平面であり油彩画であると言う話。

そして今のところ、それを発表するのに最も適した場所と思えるのが、たまたま画廊だったり、美術館だ、というだけなのだ。

表現したいと思うことを表現し、発表したいと思う場所に作品を展示すること、その行為に関して言えば、私は現代のどんな表現者とも、何ら大差も違いもない。

ただ伝統工芸師と同じように、昔からある技法を駆使しているだけなのだ。

そして私はどちらかと言えば「行為」よりも「作品」に重きを置く作家である。

背景にある物が時間とともに曖昧になったとしても、何かを感じ取れる「作品」。
私が言葉を発しなくても、何かを問いかけ、訴えかけるだけの力のある「作品」。
行為者である私が、たとえこの世からいなくなっても、残り続ける「作品」。
私と言う人間は忘れ去られても、決して忘れられることのない「作品」。


そんな「作品」を一生をかけて作れれば、もう何も思い残すことはないのかな?

そして今は、何よりも自分が描きたい物を描き続けるだけなのです。



中野修一公式ウェブサイト/この世界のカケラを眺めながら
http://homepage.mac.com/sekainokakera/index.html


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