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2009年11月14日 (土)

物理的なそれと心的なそれ/被写界深度の話

09111401

絞りをめいいっぱい開けて、シャッターを切る。
すると見せたい所にだけピントがあって、その前後はボケて、奥行きのある写真ができます。

見せたい所を際立たせる事で、撮影者の思いを明確化するときなどに使う手法。

これが私の言う所の、いわゆる
「物理的被写界深度」

何故に「物理的」といえば、これはレンズの絞りとそこからの距離によって、極めて法則的に生じる現象ですので、あえてこう呼びます。

で、こんな写真を撮っていると、当然、こんな絵が描けないかと思い、ちょっとやってみます。

09111402

すると、こんな風になります。

「これは面白いかも...」

やってみると、確かに「物理的被写界深度の浅い写真」の様な雰囲気を醸し出した絵になってきます。

まるで天下でも取った様な、軽い高揚感のもとで制作を続けているうちに、ある事に気が付きます。

「こんな絵、どこかで見た事あるなぁ...」

で、よくよく思い出してみると「そんな作品はとうの昔から描かれている。」という事実に行き当たります。

例えばこんな風に...

09111403

これはベラスケスと言うスペイン人が、今から400年近く前に描いた作品の部分なんですが、①の人を良く見て下さい。
(この写真自体、全体的にピンぼけでわかりにくいかもしれませんが)確かにこの人は「ピンぼけ」見たいに描かれています。
ここを暗くぼかす事によって、手前(=見せたい所)を際立たせ、明確化する、つまり「被写界深度の浅い写真」と同じ様な効果を生み出しています。

で、私はこれを
「心的被写界深度」と呼びます。

なぜ「心的」かと言えば、②の人を見てみて下さい。
写真であれば一番手前の人にピントがあっていて、その奥の人①のピントがボケているとすれば、更にそこより遠くにいる人や、もっと奥の背景などはもっとボケるはずにも関わらず、②の人はピンぼけしてません。

単純な物理法則に依るのではなく、作家の意図によって、一つの画面の中で「深度」を自由に使い分けることから、仮に「心的」とよびます。
(なんなら「作為的」とか「無秩序的」とか、呼んでも構いませんが)

ちなみにこの①の場合、さらに暗室作業で言う所の「焼き込み」みたいな事をする事で、さらにピンぼけみたいな効果を出しています。

長くなってしまいましたが、要するに、絵画の世界では、ずっと以前からこんなことは行なわれていたというお話。
別段、新しい試みではないことに、今更気が付いて、ちょっと赤面しています。



中野修一公式ウェブサイト/この世界のカケラを眺めながら
http://homepage.mac.com/sekainokakera/index.html

Ntj09[ネオテニージャパン秋田/サポートプロジェクト]


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コメント

通りすがり 様
コメントありがとうございます。

本当はコメント欄でお返事するのが適切とは思いましたが、書いていくうちに、どんどん長くなってしまい「これではいかん!」ということで、あえて12月26日の記事「被写界深度と空気遠近法、そして」の中で、説明してみました。
もっとストレートに答える事ができれば良かったのですが、ちょっと遠回りをした長い文章になってしまいかえってわかりにくいかもしれませんが、今はこれが精一杯の答えです。

もし、時間がありましたら、読んでみてください。

投稿: 中野 | 2009年12月26日 (土) 06時48分

ちょっと被写界深度という言葉を検索していた通りすがりの者です。
突然すみません、一つ思ったんですが上の絵のピンボケが空気遠近法みたいにも見えたのですが、心的被写界深度とするならその違いって何なのでしょう?
もしよければ教えてください。

投稿: 通りすがり | 2009年12月25日 (金) 21時40分

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