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2009年2月 3日 (火)

ある画家の死

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 先日、アンドリュー・ワイエスと言うアメリカの画家が亡くなりました。経歴から察するに「いつかそんな知らせが来るだろう」とぼんやりと思ってはいましたが、とうとうその日が来てしまいました。

 気が付けば「芸術家」とか「アーティスト」と呼ばれる人はたくさんいますが、「画家」と呼ばれる人がめっきりと少なくなった昨今、私にとっての「本当の画家」がまた一人この世から消えてしまった事は、本当に寂しい限りです。(最も彼がそう呼ばれたかったかどうかはまた別の問題ですが)

 モダンアートなどに始まる、新たな芸術の潮流が次々と生まれてきた欧米の美術史の中で、元を正せば全て同じ所から出てきているはずなのに、気が付けば、全然別の流れのようにさえ見える、彼の作品群。「時代遅れ」とか「古くさい」などと言われ、時として生きにくい時代もあったのではないかと想像してしまいます。そんな中にありながらも、彼の作品は「しっかりと見る」「たくさんスケッチをする」、そんな画家として当たり前の事を、最後まで続けてきた事を感じさせてくれます。

 ある画集の中で見た、モチーフとなった建物の実際の写真。それはお世辞にも立派と言えるものではなく、いたって普通の家であり、わざわざ見に行きたいと思うようなものではありません。そうやって彼の作品のモチーフとなっている風景の実際の姿を想像してみると、確かに、彼の描くものの多くは、目の前にあってもたぶん見過ごしてしまうような、平凡な風景なのかも知れません。
 しかしそんな物が、彼の手にかかり作品となった時、詩情豊かで美しい風景画になっているのです。

 目の前にある平凡な風景を、写生のように写し取るだけなのに、それが美しい風景となり、それは1つの芸術作品となります。考えてみればただ「それだけのこと」ができなくて、みんな目新しいものを求めて、色んなものをくっつけたり、装置を作ったりしているのかもしれません。そんな物に、最初は確かに驚くかもしれませんが、結局どこかで飽きてしまうのです。
 だから例えば金沢の21世紀美術館は、私にとってはディズニーランドと一緒で一度行けばもう充分の場所ですが、ワイエスの作品展は、毎回、同じようなラインナップにも関わらず、懲りずに毎回観に行ってしまいます。

 たぶん今の時代、私のようなこんな考え方の方が、今を生きる芸術家としては異常なのかもしれません。でも自分にとって感動できる風景、描きたいと思える風景が、自分の身の回りにたくさん転がっている事に気が付いた時、もうそれ以上何も必要ないと思うようになってしまいました。

 ただ惜しむらくは、私にはワイエスのような力量がない事。いくら頑張っても平凡な風景は平凡な風景のまま画面に貼付いています。

 彼のような画家が、また一人いなくなったこの世界に、少しだけ物足りなさを感じる今日この頃です。



中野修一公式ウェブサイト/この世界のカケラを眺めながら
  
http://homepage.mac.com/sekainokakera/index.html

私の作品が西脇市サムホール大賞展に入賞しました。
  http://www.nishiwaki-cs.or.jp/okanoyama-museum/thumbhole/




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