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2008年6月16日 (月)

身近な物とそうでない物、その境界線は?

08061501



「身近なモノは描かないんですか?」

そう尋ねられて考え始めました。その全てではないにしろ自分では「身近なモノ」のつもりで描いていました。しかしそういわれて冷静に作品を見つめ直してみると、・・・その画面上には「身近」とは到底呼べない「何か」が存在しているのに気が付いたのです。

上の写真のようなモチーフたち。それらは確かに収集された物たちであり、ある目的のもとに集められ下記のような変遷を辿るのです。

 「いつか描こう」という目的で収集される。まだ身近なモノではない。
  ↓      ↓      ↓         

 やがてそれらの物は「見慣れた風景」の一部にになる。
  ↓      ↓      ↓         

 自分はそれを「身近なモノ」として描き、作品ができる。

しかしでき上がった作品を見る人の多くは、そこに描かれている物を「身近なモノ」とは認識しないのです。何故なら普通の家にはオウムガイの貝殻や、かもめの頭蓋骨やカニの殻などないのですから。
さらにそれらのモノは「画面構成」という意図の元で「配置」されることで、いよいよ身近ではなくなり「非現実」の世界へ移行していきます。

普段、窓から見ている風景を描く時も、似たような事が起こります。「身近な風景」である窓からの眺めは、時節によって様々な表情を見せます。その中から一つ選んで描いていくのですが、その「選択」にも当然、描き手の意図が介在します。真昼ではなく夕暮れを選んだり、春や夏ではなく冬の雪景色を選ぶ。その結果として「ただの」風景ではなく、「美しい」と感じる風景を選ぶ事で、何か特別な「身近ではない」風景の描かれた作品になるのです。

私はある意図によって、「収集され」、「配置され」、「切り取られた」世界を描いています。人間であり、作家である私にとって、その意図を完全に排除する事は不可能なような気がします。もちろんその「意図」が匂わないように、わからないように描く事は可能なのかもしれませんが・・・。
美しいとか、気になるとかそういった事を感じたことのない風景を選んで描く事も可能でしょう。しかし描き進む事によって、そこにも何らかの作家の「意図」が介入してくるでしょう。それをあくまでも自然で身近に感じるままの状態を保ちつつ描き続けるのは、かえって難しいのかもしれません。

でもそんな絵が描けたら、またきっと面白い物が出来上がるのかもしれません。もっと「身近で」普段着みたいな作品を、今度描いてみようと思います。



私の作品が西脇市サムホール大賞展に入賞しました。

http://www.nishiwaki-cs.or.jp/okanoyama-museum/thumbhole/


中野修一公式ウェブサイト/この世界のカケラを眺めながら
http://homepage.mac.com/sekainokakera/index.html

展示室4に新作が展示されました。


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